廓然無聖(かくねんむしょう)
私の好きな言葉に「廓然無聖(かくねんむしょう)」という言葉があります。
その昔、寺社仏閣に寄付を重ねた金持ちがいて、それでも一向に良いことが起きる気配も感じられないことから、思い切って、寺の住職に尋ねたらしいのです。
“わしはこんなにも寄付を重ねているのに、良いことが一つも起こらんとは何事じゃ?”と。
すると住職は以下のように諭したと言うのです。
「お布施や寄付などというものは、見返りを求めてするものじゃない。見返りがありきなら、それはお布施でも寄付でもなく、単なるお買い物だ。」と。
功徳を求めることの未熟さを説いたとされる、それが「廓然無聖」の意味です。
さて、私は、一年に何度か、日ごろの感謝を申し上げに、氏神様にお参りに行きます。
困った時の神頼みは嫌いなので、いつも感謝だけを申し上げて、帰ってきます。
苔むした歴史ある参道の階段は、蝉の鳴き声がいっぱいで、
光が入りやすく間伐された周囲の林には沢山のキノコが生え、
手すりには赤とんぼ、秋の訪れを教えてくれました。
さて、明日17日は、サマージャンボ宝くじの抽選日です。
だからと言って、決して、私は、「宝くじが当たりますように」とお願いしに行ったわけではないことを申し上げ、この辺で失礼いたします。
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